教えないから身につく英語

「教えない」英語教育

タイトルが気になって、図書館で借りました。本のタイトルは『「教えない」英語教育』。「教えない」というのは、私が考えている「教えない」と同じ意味だろうか・・・ということが知りたくて。

読んでみると、ほぼ同じでした。というより、もっとすごかったです。はっきりこう書かれていました。「教わろう」と思っているうちは、英語をいくら勉強しても身につかない(英語を使えるようにはならない)と。

う~ん、いいですね。大大大賛成です。(体験済みだから)

失敗しないための乳幼児期から始める英語教育

乳幼児期から始める英語教育について、著者はどう考えているかということも含め、英語を使えるようになるためには、親はどのように子どもに関わっていけばよいのか、学校教育はどうあるべきかについて、書かれていました。

すべてを紹介することはできませんが、いくつかをかいつまんで紹介したいと思います。

大量のインプット

まず、多読と同じ考えです。英語を話したり書いたりするためには、大量のインプットを必要とすること。私の存じ上げている多読の先生がよく例え話でおっしゃるのと同じ内容の説明がありました。

「コップに水を注ぐと、やがてコップから水が溢れてきます。それと同じように、英語を大量にインプットしていくと、やがて英語が体から溢れ出すように、英語を話せるようになってきます」という説明。もちろんこれは例え話であり、ある日突然ペラペラになるということを言っているのではなく、体に一定以上英語を溜めなければ、アウトプットはできないということです。

ペラペラと論理的思考は別

大量のインプットを行えば、わりと自然に英語がでてくるようになるけれど、流暢に話せるのとはまた別だと思います。ぺらぺらと話すということと、英語が使えるということは別物であるということは、前に紹介した本にもありましたし、私もそう感じています。

ペラペラになるよりも先に、英語的思考というか、論理的思考を身につけたほうが、絶対いいです。それ以前に、母国語できちんと話せることはいうまでもありませんが。その上で英語でスラスラと話せるようになる「訓練」をして初めて本当のペラペラになるのだと思います。

本の話に戻ります。著者も母国語は大事だと主張しています。帰国子女などで見かけるそうなのですが、日本語も英語も中途半端になってしまっている「セミリンガル」状態の人がいるそうです。やはり母国語をしっかり使いこなせるレベルにないと、外国語もしっかりと身につかないということです。

したがって乳幼児期から英語教育を始めることについて、反対はしていないけれど、親は責任をもってやるべきと考えているようです。

親はどうなの?子どもに真似されて大丈夫?

ズバズバと言いにくいことも気持ちよく書かれていて、すっきり。親が手本となるので、親が英語が嫌いだとか、勉強していないというのは論外だそうですよ。私はその点について、今まであまりはっきりとは言いませんでしたが、もっともな意見です。

例えば小学生に、親がテレビを見ながら「テレビなんか見ないで勉強しなさい」なんて言ったら子どもはどう思うでしょう。親は子どもの鏡なんですよね。「親を見て育ちなさい」と言わなくたって、自然に親を見て育ちます。

それが反面教師となるかどうかは・・・わかりませんけどね。そんな賭けなどする必要なんてないわけで。

よく親が子どもに、自分のように英語アレルギーになってほしくないからという理由で、幼児英語の教材やDVDなどを子どもに見せている家庭について、こう意見されていました。

そういうことをしても、子どもはバイリンガルにはならないです、と。言語の習得は、そんな簡単なものではなく、私たち日本人が日本語を獲得するまでの過程を見たらわかるのだと。

母国語の習得を考えてみよう

赤ちゃんはお母さんやお父さんと、目を合わせながら、心の交流をしながら、その時その時の環境や感情に合わせて声をかけてもらっています。まだ話せない赤ちゃんに対して、親が代弁をしてあげる時期があります。私の子育ては、今まさにそんな時期です。

赤ちゃんは親に自分の気持ちを代弁してもらって、心が安定するのだと思います。うちのぽこすけもそんな感じです。何だかグズグズ言ってるときに、何を言ってるかに心を傾けずに一方的に対応していたら、全くグズグズが止まりません。しかし、「ここが痛いの?大丈夫?」とか、「ご飯が熱かったの?ふぅふぅしようか?」などと、子どもの気持ちを汲み取ってあげて、言葉をかけると機嫌がなおります。

そうやって母国語を獲得していくのだと思います。「中途半端な英語で語りかけたり、教材を与えるだけで放っておくのはかえって毒になります。」と、はっきり断言されていました。

「教えない」の意味

では子どもの英語教育はどうすればいいのか?ということについて、著者の経験に基づき、説明されていました。詳細は著書を参照していただきたいと思います。

ポイントは、その年齢にあった英語との関わりがあるということと、子どもが英語を話したりしたときには、間違いを訂正したり、訓練させたりするのではなく、言葉を使うチャンスをたくさん与えてあげることなのだそうです。

“fun”から”interesting”へ

その年齢にあった英語との関わりという点について、もう少し説明すると、幼児期から論理性を求めてもしかたがなく、英語を「楽しい」と思えるような関わりを大事にするということです。論理性を求めるのは、9~10歳以降だそうです。その頃、抽象思考能力・認知能力も高まり、母国語をかなり自由に操れるようになってきている時期。

その頃ぐらいから、幼児英語のようなただ「楽しい」だけの英語に飽きてくるらしく、継続するためには「興味」を引くものでなければならなくなります。知的好奇心をくずぐるような何かでしょうか。"fun"から"interesting"へ。

スムーズに移行できれば、子どもは英語を継続することが多いようです。これに失敗すると、子どもは英語をしなくなり、嫌いになる子もいるらしいですよ。

英語=勉強ではなく、豊かなコミュニケーションのために

幼児英語教育をしていて、ある程度英語で受け答え出来ていた子でも、小学校に入ってから、全く英語を話さない、話したがらない子がいるそうです。実は私のいとこの子どももそうです。親は子どもが英語を話した!ということで喜びますが、まだ小さいうちは毎日見聞きしている英語への反射、記憶だったりします。また親の期待に応えるためだったり。

それが大きくなってくるとね・・・自分の頭で考えて、親の期待通りには行動しなくなりますよね。当たり前です。親の従属物ではないのですから。だから英語教育に熱心な方に対して、幼児期の子どもの英語力には過度な期待をしないことだと著者は述べています。

結構厳しいことをいっぱい書いてしまいましたが、これは私も含め、子どもを持つ親は知っておくべきことだと思います。親が子どもに英語を!と思うのなら、是非親も子どもと一緒に英語を楽しんだらいいと思います。

絵本を一緒に読むのなんて、いいじゃないですか。読み聞かせなんて、素敵じゃないですか。下手な発音だからって、CDやDVDを聴かせるよりも、親の肉声のほうがいいに違いありません。膝の上に乗っけて、同じ絵を見て笑って、指さして。

こういうコミュニケーションこそ、まさに言語の獲得には必要なことなのではないでしょうか。発音なんてね、もっと大きくなってから、いくらでも直せます。ネイティブと同じになんかなる必要ないですし。ちょっとうまくなれば十分です。

ちょっと上手くなる程度なら、40歳ぐらいからでも十分間に合います。私は40歳で発音矯正に成功しましたから。なんでもやる気しだい、ということで。